チャレンジするから試練も出てくる

コラム

浄土真宗の親鸞(しんらん)。

築地に住んでいたことがあったので身近に感じていた(築地本願寺は、浄土真宗派)。

親鸞は、仏教という方法を用いて人々の悩みを軽くした偉人である。

でなければ、こうして現代でも語られることはないだろう。

しかし、彼も順風満帆ではなかった。

もともと浄土宗の法然の元で学んでいたが、危険な宗派とみなされて島流しになってしまう。

また、晩年84歳では、息子が浄土真宗の混乱を招く要因となり絶縁。

大変、苦しんだそうだ。

90歳まで生きたそうだが、最後まで親子関係で悩んだ。

なんだか考えさせられる。

このように、親鸞でさえ大きな試練があったのだ。

いや、親鸞だからこそ、試練が大きかったのだ。

「大きなチャレンジには、相応の試練がある」と、言っても良い。

何もせずにボーっと日々を過ごしていれば何も起きない。平穏な日々が過ごせる。

しかし、「ぜったいにこれを達成する!」と、誰が止めてもやりたいことがあったとすれば、今すぐ何かしたくなる。

そうなると、チャレンジになり試練が出てくる。

つまり、試練が出てきたということは、チャレンジしている証拠。

その試練が「あまりにも辛い」と思っているならば、それほど大きなチャレンジだということ。

でかいでかい山に登っている途中なのだ。

大丈夫。ゴールは余裕で達成する。

いつかきっと、自分が納得するカタチになる。

今、目の前にある試練を誇りの思ったら良い。

他の誰もが経験できない貴重なものだ。

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