「結果」ではなく「今」を楽しめ

コラム

親鸞と言えば浄土真宗。

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と、唱えれば救われる。

当時、飢えや病気、天災、身分制度に苦しむ人々が多かった。

読み方もできない人がほとんどだった。

そんな時代に産まれていたら?

そもそも、生きること自体が苦しいだろう。

親鸞は、師匠である法然(ほうねん)から教わったことを伝え続けた。

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と、唱えれば救われるよ」と。

シンプルかつわかりやすい。希望が持てる。

その証拠に、爆発的に人気が出てしまったために、他の宗派から弾圧を受けて島流しになってしまうほど。

 

さて、そんな親鸞がすごさがわかるエピソード。

キリスト教などは、免罪符というものを売ったりしてお金を集めていた。

しかし、親鸞は違った。

「寄進(お金を僧に渡す)ことは、意味ないから」と。

どういうこと?

それよりも、もっと内面的な、心の中をひたすら考えていたのだと思います。

P100 図解 歎異抄 齋藤孝著

要するに親鸞は、哲学することに意味があると考えていたのだ。

「哲学する方法を売る」という宗教ではなく、そもそも哲学する。

その結果、信者が増えた、ということなのだろう。

 

これは現代でも非常に学びがある。

例えば、現代で言えばお金は避けて通れない。

どうしても年収や資産額に目が行きがちだ。

それ自体は悪いことではない。

が、そこに執着してはいけない。

では、親鸞ならば、なんていうだろうか?

ビジネスであれば、「お客様が喜ぶこと、社員が働きやすい環境を考えよう」と言うだろう。

投資であれば、「良い会社や物件を見つけることに集中しよう」と言うだろう。

アーティストであれば、「良い作品をつくることだけに集中しよう」と言うだろう。

そのことだけを哲学する。

もっといえば、楽しめってことになるじゃないだろうか。

どうしても、「結果」に目が行きがちだ。

こうなると、結果だけを追ってしまうため苦しくなることもある。

そうじゃない。

ただ哲学する。ただ楽しむ。

そうすれば、親鸞の言う「他力」の恩恵を受けて結果がついてくる。

実に東洋的な発想で好きである。

中には「早く結果が欲しい(救われたい)!」と思って、平気でグレーなことをしてしまう人がいる。

もともと夢を持った起業家だったが、詐欺師になってしまった例はたくさんあるのだ。

これでは、本末転倒。

ただただ楽しもう。

そうすれば、本当に結果がついてくるんだから。

ある意味では、お金に関しての夢(例えば年収◯億円)は、忘れているくらいでちょうどいい。

それくらい、夢中になってやっていることにのめりこんでみると良い。

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